おばですが、姪の授業参観へ行って来ました。懐かしいチャイムの音。いつもよりもかなり静かな少1の姪っ子。(笑)

 今の授業参観は4日間あり、いつでも好きなときに授業を見学できるフリースタイルになっていることにも驚きました。美術の時間を見学したいと思ったら、早速、金曜の1,2時間目は図工(!)とのことで、通勤電車に乗り、姪の通う小学校へと向かいました。
 校門では、お嫁さん、3歳の姪、1歳の甥、妹、母がいて、1人の参観に計6人。家族がついて行きすぎだと思いました。(笑)さらに、午後にはお嫁さんのお母さんも参観したそうです。

無題 授業風景だけでなく、壁に展示してある植物の観察日記や、過去の図工の作品も見てきました。
 そのとき、ある作品を見ていて、人によって解釈が異なると感じた出来事がありました。

「ここ消し後がすごいね。こんなに消しゴムで消した人は、他にはないね」
「ほんとだ、消した後がすごい。よく気づいたね」
「人の目を気にしすぎなんじゃないかな?」
「そうかな。自分のイメージに近づけるため、書いては消してを繰り返したんじゃないかな」
「ああ、なるほどね」

・人の目を気にして消したのではないか?
・自分のイメージに近づけるため消したのではないか?

 世界観の違う2つの見方でした。もしかしたら、3つ目の選択肢もあるかもしれません。事実は、当事者に聞いてみないと闇の中。ただ、どれを真実にするか? は、その人次第です。


 自分が子供にフィードバックするとしたら、「消した跡がいっぱいだね。一生懸命考えて書いたのかな?」と言うと思います。恐怖心からの発想よりも、能動的な意味合いがあるからです。被害者的に考えるよりも、能動的な方が幸せを感じられると考えています。こういう一言一言が、その人の生きる世界の観方を形成していくのだと思いました。

 また、人の発言はあまりあてになりません。その人から紡ぎだされる言葉というのは、そのときの心の状態が反映されるからです。その発言は、当事者とは関係なく言葉を紡ぎ出した人のものであるときもあるでしょう。
 例えば、子供の頃に親から言われた言葉で、ネガティブな感じがするものは、大人になった自分が、もう一度ニュートラルな観点をもって、自分を再構築することが、自分を幸せにする一つの方法だと思います。

 結局は、自分を自分でどう見るか? ということが、相手をどう見るか? へもつながっているのです。
 

 今日はこちらの質問はいかがでしょうか?

どのような物の見方をしているか意識していますか?