「人の意見に惑わされたり、惑わされない人に、イラっとしたりすることがある。自分を大切にすることについて考えてみたい」というテーマです。

 クライアントさんの周りで、気になる2人がいて、その人は羨ましい感じのマイペースさであり、自分のスタイルを持っている感じの人のようです。感情のブレがなく、一貫性があり、必要以上に人に配慮しないし、無理して主張もしない人のようです。ときに、バッサリと切ってしまうこともあるけれども、それは自分を大切にしているようにも見えて、周りの人たちも「こういう人だからね」で理解してもらえる…そんな2人のようです。人の意見に惑わされず、フラットな感じで自分の意見を言えるようになるにはどうしたらいいのか? 考察していきました。

 クライアントさんは、人のことを考えすぎる傾向があるそうです。
そうなりすぎないためにも、自分にガードするイメージをしてみたり、「あら?そうだったの?」くらいで、気づいても追いかけないようにすればいいのかな…とか、自分を大切にできている人になりきってみようとか、いろいろと試されたそうですが、いまいちバランスが掴めないとのことでした。

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 さて、クライアントさんがおっしゃる、そのお二人というのは、きっとニュートラルな観点から物事を捉えているのではないかと想像します。相手の感情に左右されず、自分を大切にしながら、相手のことも尊重できるような、そんな境地の人は、どんな風に考えるのでしょうか?
私が、傾聴の経験を通して学んだことをシェアしました。


「事実を捉えているようだ」
 でも、事実と思っていたことが、事実でなかったりすることは少なくありません。
事実かどうか判定する方法として、「それって、100%本当ですか?」という質問を投げかけてみると、「そうか、そうじゃない場合もあるな…」となったとき、それは事実ではないと言うことなのです。

「相手も自分もニュートラルに考察できているようだ」
 私は、無意識で過去の失敗について、自分を責め続けていたことに気づいたことがありました。そして、その失敗以降、「謝り癖」がついてしまったのです。私のしたことで、相手が気分を害したようだ…と思われるようなことが、たまに起こるのです。「私には悪気はないけれど、相手を傷つけてしまったみたい…」そのことにずっと悩み続けました。しかし、あるときからピタっと事件が終わったのです。それは、私の友人が、私の謝罪に対して、「私の都合のことだから、堀口さんが謝るところじゃないよ」と教えてくれたときでした。自分を責めることをやめられると、今までの恐怖が消えていくかのようです。

 それから、相手と自分、お互いさまだと思いながら、両方ニュートラルに考察してみられるようになりました。何でも謝ればいいのではなく、事実を捉えて、どんな言葉をかけるか、考えられるようになったのです。自分を責めていた自分も、ゆるしの儀式をして、手放しました。

 クライアントさんにそんな話をすると、相手が機嫌悪いと、私が悪かったとなりがちで、すぐに「ごめんなさい」を言ってしまうところがあるとおっしゃっていました。
 自分で自分を責める癖を手放し、あとはワンクッション置けるように訓練することです。事実を見ること。自分、相手の感じたこと、したこと両方を検証し、自分の発する言葉を考えるのです。

 先日、ネットニュースで、浅野忠信さんが新作の映画の舞台挨拶で観客からの訴えに対して謝罪したというニュースを目にしました。

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ニュース抜粋
 監督は、「難しいことを描いていて、そういうことを言われるのも当然だと思って描きました。うまく言えないけど、そこに愛があったこともありうるってことを描きたかった。美化したつもりはなくて、そこにある厳しさも描いたつもりです」としどろもどろ。浅野忠信さんは、対照的に「過激な映画やあまり見たくないような映画にも出てきましたが、人を傷つけたいという気持ちはない。嫌な気持ちをさせてしまったら申し訳ありませんでした。ただ、僕は一生懸命やりました。きちんと考えてやりたいと思います」とキッパリと答えた。

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 浅野忠信さんは、相手に謝罪するところは謝罪ができ、また自分の立場も正当化するわけでもなく、ただ、自分が感じている事実を述べています。

 私は、クライアントさんのメールの返事を1日中考え続けたりすることを何度も経て、ようやくわかってきました。 相手も自分も大切にできるような境地は、鍛錬が必要だと感じています。

 今日はこちらの質問はいかがでしょうか?

どんな意見を述べる傾向にありますか?