7月くらいから、「愛すること」系の本をいろいろと読んでいるので、アマゾンのページを開くと、そのキーワードに関する本が出てきてしまうので、次から次に読んでしまいます。(笑)

何度も何度も本を繰り返し読んでいくと、段々と分かってくることがあり、今まで気づかなかった、自分自身の「怖れ」、「罪悪感」、「自己否定」にたくさん気づきました。気づいたら避けることなく、おお、持っているなと自覚しました。そして、今、かつて感じたことのないほど穏やかな気分です。癒されたのでしょう。

ここ2カ月くらい、自分が学んだことに関してシェアしてみたいことがあったので、小冊子を作っていました。しかし、7割くらい完成したところで、自分が自分のことを許していないことが発覚し、書くのを中止することにしました。あれだけ集中して取り組んでいたのに、急に書けなくなってしまったのです。

過去のことは、もう受け入れ、学びに変えたと思っていたのですが、もっと詳しく分析してみると、経験としては受け入れていたのですが、自分を受け入れていませんでした。人に発表するものだから、とにかく自分のことを下げて書こうと、知らず知らずにうちにそうしていたのです。読んでくれた知人からの間接的なフィードバックに、なぜか涙が出てきて、何で泣いているのか?自分に問うてみたところ、「『わたしは悪くない』と言って…」と、心の声が聞こえました。それから、オセロがひっくり返ったように、過去のことが許せていきました。

その様な体験を最近したばかりなので、体験を言語化されたものはないかと、手に取った本が、『愛とは、怖れを手ばなすこと』。
この本で印象的だったフレーズは、「ただ一つの目標は心のやすらぎ」です。

相手に何かを言われたとき、相手はおいて、そのセリフについて、なぜ自分の心が痛んでいるのか?と考えることが大事なのではないかと最近思います。

例えば、「相手が自分の思い通りに動かなくてイライラする」という場合も、自分の方にそう感じる何かがあるわけです。自分が持っているその怒りは、きっと怖れから来ているのではないかと思うのです。例えば、裏切られたくないとか…。裏切られたことって何か過去にあったのだろうかと、ただ、そのことについて考えてみる。すると、まず相手を責めることがなくなります。その段階で相手のことはすでに受け入れられていることになると思います。そして、考え続けることで、何かが発見できて、自分が癒されていくのを実感しています。考えつづけることで、自分も受け入れていることになるのでしょう。また、「相手の言葉に否定された気がする」となったときも同様に、その言葉の何に自分が引っ掛かっているのか考えるようにするのです。

「愛」についての本をたくさん読んだら、そういうものの見方もしてみるようになりました。
この「考えている」は、葛藤をしているのではなく、とてもニュートラルな気がします。

私が、先月さんざん読んでいて、今も何度も読んでしまう、リズ・ブルボーの本と、『愛とは怖れを手ばなすこと』のあわせ読みで、いろいろ考えてみることになり、考えている段階で、もう受け入れ始めている状態になれているわけで、それは癒しへと繋がっていくのだと思います。

リズ・ブルボーの本


薄くて読みやすい本なので、何度も読んでみるのにはとてもお薦めです。




 今日はこちらの質問はいかがでしょうか?

自分の気持ちについて、「ま、いいか」としていませんか?